現代社会における自由の話


はじめに

「人それぞれ」という言葉が最近言い訳っぽく聞こえて嫌です
人それぞれなものは他人が干渉するべきでないとかいう風に言われることが多くなったように思うのですが、
最近になって自由が肥大化したことの弊害であると思います
それはその人の自由を尊重しているようで多様性を認める言い方のようにも取れるのですが、
個人差があることがらに関しても理想像みたいなものは普通にあり得るものだと思いますし、
その人が好きなようにやることが必ずしも一番好ましいことであるか、といえばそうであるとは限らないと思うわけです

肥大化した自由

自由が肥大化している、と言いましたが、
最近は何かとその人の自由だからとか個人の自由を根拠として人の干渉を退けることが多いように思うわけです
昔は自由なんて権利のようなものとしてそのように言ったりすることはあまりなかったように思うのですが、
何かと最近になって多くなったように感じます
自分の権利を主張し自分の自由を守るということが当たり前になっています

自由というものは必ずしも良いものなのか

自由が広く保障される社会というのが必ずしも良い社会かといえばそうではないと思います
むしろ自由は適度に拘束されることが望ましいと思いますね
自由が認められると人は自由を根拠として好きなことをやり始めます
それは必ずしも良い事に繋がるとは限りません
だから規制というものが必要になってくるというわけです

インターネットにみる特異な自由の形

というわけで自由が良いものだと限らないと主張したところで、
ネット社会なんかは特に自由至上主義的なものが独り歩きしていると思います
自由があまりに広く認められ過ぎて言いたい放題な書き込みは絶えず、
さらにはセーフなラインのこととまずいこととの境界線が見えずに逮捕される人々も居るわけです
これは現実社会的なリベラリズムとは質的に異なり、
外界からの介入や修正を難しくしているという面で閉鎖的なのに自由だけが強く残されているといえると思います
これはネット社会の特性的なものといえると思います

私はネットのこのような側面が嫌いです
無責任な発言が溢れ、分母の大きい世論であるネット世論がそのような悪しき自由の影響を大きく受けてしまうということは悲劇だと思いますね

のさばっている主権者

ネットで簡単に意思を発信することが出来るようになって国民は偉そうになったと思います
主権者である国民は知識も無いのにニュースなどからあまりに表面的なことばかりを言います
主権者なのに自分がこうすべきだと思っていることと違うようになるからそれが不満でたまらないような言い方をします
でも間接民主制って知識の無い一般人に代わって知識を身につけた政治家が政治をおこなうという面もあると思うわけですよ
全員が主権者だから好き勝手な事を言っていいという意味のものだとは思いません
ネット世論が強力なものとなり政治家が主権をもって態度がでかくなった国民に一層媚びへつらうようになるのならそれは悪循環も甚だしいと思います

権利はただの規定に過ぎない

近頃は権利というものが過剰に認められ過ぎていると思います
認められているというよりも人々がそれをむき出しにしているような感じでしょうか
自分にはこの権利があるんだからそれを認めろ、みたいな雰囲気をひしひしと感じるのですが、
そもそも権利なんて憲法で規定されているものであって個人に由来するものではないですし、
個人個人が権利という武器を振り回しているような今の社会が奇妙なように思えます

責任あっての自由

自由には責任が伴います
先人たちは市民革命などにみられるように自由を勝ち得てそれを堅持してきたわけですが、
現代ではその責任の部分に目を当てずに既に認められている権利を振りかざすようになりました
本来あるべき責任を伴った自由はlibertyであるはずですが、
阻害されないという意味だけとしてのfreedomに人々の認識が切り替わってしまっているのではないでしょうか
そこは日本語としては同じでも質的には大違いのように思えます

まとめ

それは必ずしもネットのせいだと言い切れるような質のものではありませんが、
言いたい放題のネット世論の波及効果などによるところは大きいような気がします
ネットというものが自由を認める傍ら責任というものを強く求めないことは少なからず人々の自由に対する感覚を変えてしまったのではないでしょうか

人々はもっと自由というものがどういうものであるか考えてから自分の自由を主張するべきだと思いますね
責任を伴わずに自由の主張がまかり通るような社会は明らかに間違っていると私は思います
自由というものを考えずしてそれを主張するのはおかしいと思いますし、
現代を生きているからこそ特に考えてもらいたい事ですね